立憲民主党公文書管理プロジェクト・チーム(座長:逢坂誠二衆院議員/事務局長:奥野総一郎衆院議員)は5月22日、「公文書の意義と今後の課題」と題して、元総務大臣・鳥取県知事の大正大学教授・地域構想研究所長の片山善博さんから話を聞きました。

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公文書管理は民主政治の基盤

 公文書管理は単なる文書を管理するといった話ではなく、国家の品位に関わる問題です。政治権力がどんなことをやったのかということを、主権者たる国民が、事後に検証できる装置が備わっていない国は民主主義国家とは言えません。

 公文書管理は公務員、官僚の役割だという意識が、官僚や政治家、さらにはマスコミのみなさんにも強く見られます。しかし、実は官僚だけでなく政治にこそ重い責任があり、政治家の問題でもあるという認識を与野党の皆さんに持ってもらいたい。決して官僚任せにしてはいけません。

 私はこういう問題に立憲民主党が取り組んでいることに共感を覚えますし、ぜひ、がんばってほしいと思います。

 公文書を作ることと、それを管理し公開することはセットですが、これは民主政治の基礎、基盤です。これがないと民主主義国家と言う資格はありません。

公文書改ざん、違法な破棄はあってはならないこと

 行政を検証する有力な手段である公文書とその開示。そのことが結果的にさかのぼって権力の座にある人たちにたがをはめる。後でこんなことが明るみになったらまずいよねという抑制作用が効くことが期待されます。最近は、「そんなことはどうでもいいや」という人も多いですが、やはり後で公開されることを念頭に置くと、そんなことはできない、後で説明責任を果たせないことをやることには躊躇(ちゅうちょ)する人が多いと思います。

 権力の座にある人たち、集団が、公文書を改ざんしたり、違法に廃棄したりすることは、絶対にあってはならない重大な犯罪です。このことの認識を政治の世界の人たちは、与野党を問わず共有していただきたい。

 もう一つ、政治学の観点から民主主義は治者と被治者の同質性が保障されていなくてはなりません。権力者が世襲で長らく居座るのは、民主政治とは言えません。治者と被治者が同質でなくなるからです。入れ替わりがあり得るという「権力の周流」、権力の座にあった人も普通になる、普通の人が権力を持つという、そういう意味での同質性も重要です。

 同質性を保障する要素として、情報に共通してアクセスできることも重要です。国家機密等一定のものは除外されるので完全にとはいきませんが、基本的には行政や権力が持っている情報に主権者たる国民がアクセスできる。情報を共有することができる。共有した結果、権力を評価することができる。民主主義的な方法で権力の座からひきずりおろすこともできる。

 情報が権力者にだけ偏り、国民が情報から疎外されていると、国民は権力を評価することができなくなります。これでは何も物が言えなくなり、民主主義とは言えません。そういう意味が、政治学の立場からは、公文書と情報公開には含意されています。

公正な執行の証明――説明責任を果たすための必需品

 総務省の放送法の文書に関して、私が思ったのは、公文書は行政に携わる者の正当性を担保する手段にもなり得るということです。 あの文書からは、官僚の気概やプライドを感じました。私から見ると、あれは役人にとっては、曲げられたことをさせられたのであり、それは官僚にとっては恥ずかしいことですし、役所のOB等関係者に顔向けできない。そういう時に、自分たちはこういう理由でこういう展開になりましたと文書にしておく。

  私も役人をやっている時には、政治家の圧力で強引に政策を曲げられたことはありませんでした。ただ、似たようなことはありました。例えば、国会議員から筋の悪い案件を持ち込まれ、それを拒否したことが何度かありました。そういう時、相手は随分憤慨するので、次官や官房長にいろいろクレームが来るかもしれません。そこで、その際は何分よろしくという趣旨の上司向けの文書を書いていました。

 こうした文書を作成して残しておくと、後で何か問題になった時に、あの時ちゃんとやっていますよという証明になる。権力、行政は、日々、いろいろなことを選択して決めなければいけません。後から批判されることは十分にあります。もちろん間違いもあります。大抵はまともなことをやっています。その際に恣意的に決めたのではない。こうした経緯の中で、真摯(しんし)に対応したという事情が理解してもらえるのではないかということです。

 私は公務員、官僚、知事、大臣もやりましたが、公文書は説明責任を果たす役割を持っているということを念頭に置いていました。記録をとっておくことで、後で、思わぬような批判を受けた時に、きちんと申し開きができる。説明責任を果たすことができる。こういうことを常に心がけていました。

 昨今、安倍政権の時にしょっちゅう見られたことは、「文書は廃棄しました」でした。やったことに対して、自分たちが説明できない。文書があるとまずいことになるから廃棄したのだろうという推測がおのずと成り立ちます。

説明責任の意味するところ

 「説明責任」は曲解されていて、当時の政権の座にある人がたびたび「もう何度も説明したから説明責任を果たした」とか、「丁寧に説明することで説明責任を果たしていく」と言っていましたが、これはまったく間違いです。日本語の「説明責任」という言葉は誤解を生みやすい。アカウンタビリティのアカウントとは会計のことです。会計を任された人が任せてくれている人にきちんと説明できる、私は不正なことはしていないと、ちゃんと説明できることを言います。

 民主主義の文脈で言うと、会計係は政治家、その配下にあるのは役人の人たちです。任命したのは主権者。だから政治を運用した人は、国民の皆さんに対して、説明責任を果たさなければなりません。

 「桜を見る会」に呼んだ人はこの人とこの人と、名簿を示して説明すればよいだけのことです。ところが、それをもう廃棄しましたというのは、私からすると、やはり説明できないようなまずいことがあったのだろうとおのずと推測できます。まずいことなどないというなら、名簿を保管しておけばよいという簡単な話です。

 私の経験から言うと、公文書は自分自身を守る。ちゃんとやっている人にとっては、です。でも、ちゃんとやってない人にとっては、後で自分を陥れることになる。だから、早く廃棄してしまう。桜を見る会の問題とは、たぶんそのようなことだったのだろうと思います。

公文書によって過去に学び、過去を現代に生かす

 知事時代に、かつての公文書に助けられ、また、場合によっては国家の財産にもなるという認識を持つようになりました。

 例えば戦時下の昭和18年(1943年)に鳥取市を震源地にした鳥取地震がありました。鳥取では克明な記録を残していました。これを知事時代に目を通して、防災行政に取り組むきっかけになりました。

 知事になって2年目に、鳥取県西部地震があり、その時の対応や準備をする上でとても役に立ちました。もし、あの記録がなければ、あれほどの認識や意識は持てませんでした。

 古地図、古文書にも助けられました。鳥取県内には水害多発地域があり、博物館で古文書を見ていたら、中世は湾でした。その湾が砂で閉塞されて入り江になり、そこに土砂が堆積して沼になり、さらに年々土砂が堆積して、水田になって、戦後の高度成長期にニュータウンになった。この経緯は古文書を見ると、よくわかります。

 ところで、スペイン風邪について当時の内務省衛生局は『流行感冒』という詳細な記録を残しています。戦前のとかく否定的にとらえられがちな内務省が本当にきちんとした資料を作っています。もし、今の政府の人たちがこれを読んでいれば、新型コロナへの対応の参考になったと思います。では今回、国も自治体も、新型コロナへの対応についてきちんと記録を取っているのか、はなはだ心もとない限りです。

公文書は後世の貴重な共有財産

 行政とは少し異なる観点ですが、公文書は国民、国の共有財産であり、外国の人にとっても財産になります。公文書は後世の貴重な知的財産です。

 例えば、鳥取県立博物館にある鳥取藩政資料には竹島・鬱陵島の管轄に関する記載があります。これは鳥取藩が作ったものですが、今や、竹島問題をめぐっては、日本全体の主張のよりどころになっている。よく藩の記録係がとどめてくれていたなと思います。

 カエサルの『ガリア戦記』は、これはカエサルがガリアへの遠征に行った時の日々の記録です。貴重な歴史であり、とても重要な資料です。もしなかったら、われわれはそれを知ることができませんでした。

 そこで連想するのは、イラク派遣日誌です。政府は「なくしました」「やっぱりありました」となりましたが、100年、200年たつと、その頃のイラクの人たちにとって貴重な資料になります。日本の自衛隊が、100年前、200年前のイラクの民生の状況などを書いています。単に政権や組織にとって都合が悪いからとかの視点ではなくて、歴史を踏まえて後世のために、カエサルになったつもりで、現地報告書を残しておくべきだと思います。

公文書行政に関しての実践例

 私は、公文書は自分を守ってくれるものだという認識があったので、知事をやっている時も本当に大事にしました。できる限り行政過程を文書化・保存しました。災害復旧のプロセスは、会議の様子や何をやったかを克明に記録してもらいました。

 翻って民主党政権下で東日本大震災がありました。私は閣僚として担当した被災者生活支援本部のことに関しては、ちゃんと記録をとってもらっていました。本体の方の災害対策本部の会議についても、所管の役所が議事録などを作成しているものとばかり思っていましたが、ちゃんとした記録をとどめていなかったようです。これはとても情けないことで、当時の政権として反省すべき点です。

口利き案件の文書化の効果

 知事を務めていた時、県会議員さんが口利き案件をいろいろ県に頼んでくることがありました。良い口利きもありますが、質の悪い口利きもあります。それに職員は悩まされます。そこで、口利き案件はすべてメールで上司に報告することにしました。県議会からとても強い抵抗がありましたが、「議員の皆さんが行政に持ち込む情報を庁内で共有し、文書化することのどこがいけないのか」などとと、かんかんがくがく議論して文書化を決めました。文書化された情報は当然のことながら情報公開の対象になります。それを機に県会議員さんからの口利きの品質がよくなりました。

 県内の古い公文書などの散逸防止にも努めました。鳥取県西部地震で倒壊の危険のある役場庁舎を視察に行ったところ、明治時代の地租の課税台帳が床に散乱していました。そこで県立公文書館に話をして、回収することにしました。組織として、市町村の公文書を県の公文書館が必要なものは保存して整理する事業として行いました。

 国立公文書館がそれを知って、良いことだということで、全国的にやることになり、今実施されていると思います。

 県立公文書館の充実と「格上げ」もやりました。県職員が公文書館の担当になりたいと思われるような場所になるよう、公文書館を充実し、独立性を強化しました。

これからの公文書行政の課題

 公文書法制の整備とは、適正な運用を害する者、隠したり、捨てたり、改ざんしたりすることは、民主主義に対する重大な犯罪ですからペナルティを課すべきです。公文書管理に関するペナルティではなく、秘密漏洩など別の国家公務員法違反もありますが、公文書管理のほうから正面切ってやはりペナルティを整理すべきだと考えます。

 志の高いアーキビスト(公文書館をはじめとするアーカイブズにおける働く専門職員)の育成も大切です。日本ではアーキビストの育成は未だしの感があります。もちろん国立公文書館にはそれなりのアーキビストはいますが、都道府県にはアーキビストはなかなかいません。各県、各省にもいるべきです。育成する教育家も必要です。図書館司書を養成する大学はいくつもありますが、アーキビストの養成の方は必ずしも十分ではないように思います。こういう点も、課題を整理しないといけません。

 「崔杼(さいちょ)、荘公を弑す」(『史記』斉太公世家)は、家臣である崔杼が主君を殺し、次の王のもとで最高実力者になった時の話です。この主君殺しのことを国の記録官が、記録していました。その文書を見て崔杼は怒り、記録官の首をはねました。当時は記録官も世襲ですから、次はその弟が記録官になり、弟もやはり同様のことを記録に残しました。そこで崔杼はまたその記録官を殺しました。次は末の弟が記録官になり、また書きましたが、とうとう殺すことはできなかったという話です。何を言いたいかというと、命をかけて歴史を記録する。そういう人がいたということです。ある記録係とだけしか書かれず、名前は出てきませんが、志がとても高いアーキビストです。

  デジタル文書が主流になってきました。ウェブサイトなどでのデジタル文書の取り扱い方は、やりようによっては改ざんできないようになるのですが、今のやり方ならばすぐに改ざんできます。それを止めようと思ったら、かなりの準備が必要です。

 また、新型コロナの対応でも、政府は主要な感染経路など、このウイルスの性質を把握するまでに、時間がかかり過ぎました。その間にどれだけ無駄な感染を増やしたか。その都度、きちんとデジタル情報を整理して、後で検証して、それを踏まえて間違いないようにすることが必要だったと思います。

 国立公文書館は、もっと充実させなければなりません。予算・人員も増やし、独立性を強化して権限を強める必要があります。各省に対してにらみがきいて号令をかける。変則的な取り扱いをしようとしたら、阻止できるほどの権限と力量が必要です。自治体の公文書行政は貧弱なところが多いです。公文書館の設置もまだまだです。

 公文書館の充実を慫慂(しょうよう/相手に勧めること)すべきと、あえて言いたいです。

 公文書の取り扱い方のいかんは、国の「品位」に関わるとの意識を政治家も、官僚も、マスコミも共有する必要があります。与野党を問わず、党派を問わず、イデオロギーを問わず、民主主義国家を名乗るのであれば、公文書は大切にする。この認識がなければ、行政はうまくいきません。組織の一人ひとりが民主主義の品位との関係を認識することから始めることが大切です。

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